今日は一日「生きていたって意味がない」と泣きじゃくっていた。 だが少し言い方を変えてみよう。 「人類の経験値に寄与することができなければ、私が生きている意味はない」と。 それならば、何がしか人類に影響を与えることができれば、私が生きる意味は「ある」ということになる。
だがどの程度の「寄与」ならば、意義を実感できるであろうか。 蝶の羽搏き程度で良ければ、現状でも次世代の新たな思想の潮流に何がしかの影響を与えている可能性はある。 だがそれは「私にとって」認識できない。 よって生きる意欲の増強には、さほど意味をもたない。
私が考えた独自の思想に基づく、概念なり造語が、 「詠人知らず」のまま世界に定着する、というのはどうだろう。 これならばある程度の「生きた実感」は得られるだろう。 それが次世代の思想のキータームとして定着したならなおさらだ。 このレベルのものを世界に広めるために有効な手段としては、 ブログで著名な書物の書評や、有名な論点について書く際に、独自の見解を含ませることである程度達成されるだろう。 本当に有用な視点であれば、検索から読まれたものが複数の人に評価されるからだ。
これらで満足できないのであれば、やはり名前を売ることになる。 だが私は本名が嫌いで(婿養子で姓が変わるならともかく)、実名で勝負する領域には、あまり出ていきたくない。 前段階として、ペンネームや芸名などである程度売れておく必要があるだろう。 それから、人類レベルにインパクトを与える思想を展開する、という順序になる。 それに値するSomethingを、まずは構築するのが最も困難な作業であることは論を俟たないが。
……しかしこう書いてきて、あまりの虫の好さに吐き気がしてきたなw 目指すは『ヴァリス』を超える神学SF、じゃなかったのかw あるいは『意志と表象としての世界』のような世界観構築。 (ちなみに読んだのは白水社版ね。西尾幹二訳じゃないよ) ショーペンハウアーのこの書は、たまたま古本屋の店先にあったのを見つけた若き日のニーチェに甚大な影響を与えたというが……。 そういう影響で別にいいんじゃないかねぇ。晩年や死後に評価されるとかさ(笑) 今はそういう時代じゃない? とりあえず「マルチチュード」あたりはもう古いなw だからって新思想のキャッチに遮二無二邁進するのも「違う」し……。 『意志と表象としての世界』に何故惹かれたかって、ヘーゲルからもカントからさえも「浮いてる」にも関わらず、一つの書物としては見事に統一した独自の世界観を確立していたから、なんだよな。 そういうの書きたいです、はい。在野でいいからw テーマ:モノの見方、考え方。 - ジャンル:心と身体
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